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「被爆者の『長い時間をかけた人間の経験』と志を未来につなぐ」
調査・研究・資料の活用
【研究会の報告】
「被爆者の『長い時間をかけた人間の経験』と志を未来につなぐ」
2021.12.09

2021年11月20日(土)政治経済研究所 2021年度第3回公開研究会で、ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会より、事務局の栗原淑江、昭和女子大学「被爆者運動史料を後世に伝えるプロジェクト」の吉村千華さんが報告しました。

1)【報告①】“ノーモア・ヒバクシャ”の継承をめざして

― ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会の現状と役割 ―

ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会 事務局 栗原 淑江

 被爆者は、広島・長崎だけでなく、全国各地で活動してきました。継承する会が首都圏に設立をめざす「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産の継承センター」は、原爆被害者の全国組織・日本被団協の運動史料を中心とした資料の保存・整理・活用と、継承・交流活動を目的とするものです。

 継承する会が、とりわけ被爆者運動史料に着目するのは、被爆者運動には、① 被害者自身による原爆被害・その反人間性の解明、② 被害をもたらした米日政府の責任追及、③〈原爆〉に抗う主体としての自己形成、に要約される、歴史的な意義があるからです。

 原爆という人類史上未曽有の体験をした被爆者は、教科書にもない運動を創造的に展開してきました。原爆被害への国家補償を求めて国民世論をバックに国に迫り、真の争点が国の戦争・原爆被害「受忍」政策にあることを明らかにしてきました。また、原爆体験と調査にもとづく〈人間〉の立場からの核兵器批判と、核兵器は廃絶するしかない、との訴えは、今世紀に入ってようやく国際社会に受けとめられ、「核兵器禁止条約」に結実しました。にもかかわらず日本政府がこの条約に署名も批准もしようとしないのは、「唯一の戦争被爆国」と言いながら、国が遂行した戦争が招いた原爆被害を直視せず、その責任をとろうともせず、国家の非常事態のもとでは人間に核兵器の被害を「受忍」させてもよいと考えているからです。被爆者が明らかにしてきたこの事実を、いま、私たちはどう受け止めるのか、真剣に考えるべきでしょう。

 被爆者は核兵器を否定するだけでなく、強い戦争否定の思いをもって生きてきました。被爆後制定された日本国憲法を生きる支えに、その運動は、国民主権、基本的人権の尊重、憲法9条・前文の平和主義など、憲法の精神を生き、実践してきたものとも言えるでしょう。原爆地獄で助けることもできなかった死者たち(過去)に顔向けのできるような人生を生き(現在)、それを繰り返さない未来を築こうとしてきました。自ら学び考えつつ行動してきた被爆者の生き方は、私たちが歴史を主体的に生きるとはどういうことなのかを教えてくれます。

 継承を必要とするのはわたしたち、その主体はわたしたち自身です。継承とは、主体的・創造的な営み。継承すべきは、被爆者運動・組織ではなく、原爆に抗いつつ生きてきた被爆者たちの「長い時間をかけた人間の経験」(林京子)であり、“ノーモア・ヒバクシャ”の志ではないでしょうか。
 被爆者の〈原爆〉とのたたかいは、わたしたちが“ノーモア・ヒバクシャ”をのぞむとき、それに何よりの人間的根拠を与えてくれます。
 継承する会の役割は、その結晶ともいえる資料を保存・整理し、次代の人びとが、被爆者のたたかいに学び、自らの未来を創造していくための〈手がかり〉として生かせるようにすることだと考えています。

※栗原レジュメはこちらから閲覧、ダウンロードできます。

※栗原報告で使用した資料(スライド)のPDFはこちらから閲覧、ダウンロードできます。

2)【報告②】被爆者運動を戦後史に位置づける

― 継承する会の史料から何をどう受け止めたか ―

昭和女子大学大学院 生活機構研究科生活文化研究専攻 修士2年 吉村千華

 2016年に昭和女子大学に入学し、1年次から被団協関連文書整理会に参加、2018年に立ち上った戦後史史料を後世に伝えるプロジェクトに4年間参加し、歴史学の見地から被爆者運動研究を継続してきました。

 1.研究を通して、私が見てきた被爆者の「声」
 ① 第2回国連軍縮特別総会(1982年、SSDⅡ)での山口仙二さんの演説原稿から、言葉に表われない想いを想像し、② 副島まちさんの子どものことや生活の日常についてのメモの隣りに被爆者運動にかける思いが記された何冊もの手帳から、被爆者が日常のなかで運動していたことを知りました。③SSDⅡの行動予定表や ④「ロンドン法廷」報告会の手書きメモからは、「その時」「その場」の行動や感情が読みとれる「一点もの」の史料の残すべき価値を、⑤「国民法廷運動」のアンケートからは、一方的に主張するだけでなく、さまざまな現状を受けとめてきたことがうかがえました。

 2.史料から受け止めたこと
 ① 被爆者運動は原爆被害を被爆者自らが解明してきた歴史であること。被爆者の心の奥底にふれる質問や、「あの日」だけでなく「その後の人生」に焦点をあてた1985年「原爆被害者調査」は、1977年NGO国際シンポジウムの調査の経験あって可能となったものです。「あの日」やその直後の経験(被爆体験)だけでなく、原爆によりねじ曲げられた人生(原爆体験)も、原爆がもたらした被害であることに気づきました。
 ② 史料は鵜呑みにせず「自分で考える」こと。「こんな苦しみを受けるくらいなら、死んだほうがましだ」という被爆者は、数字で言えば2割。これを数字の多少ではなく、「そう思わせてしまう被害が確実にあり、そのなかで被爆者は原爆にあらがいながら生きている」ことが重要と考えた私たちは、そのイメージを可視化しようと8か月かけて「雨の図」をつくりました。
 ③ 政府の「受忍論」の立場を知ることで、戦時期から現在まで続く日本社会の構造が理解できること。現在のコロナ禍の自粛の雰囲気は「受忍論」と近く、その考え方が今も「地続き」にあることを示しているのではないでしょうか。
 「あの日」だけを残していくのではなく、被爆者が生きた人生自体をみること。戦時下の日常を生きていた「ふつうの人々」が被爆者として生きた人生を繰り返さないといった視点が必要だと思います。
 6年間、史料やインタビューを通して、「相手を理解したい」一心で、被爆者と「人間として」関わってきました。その立場から今後の継承を考えるなら、「被爆者の被爆体験・原爆体験をどれだけ自分に重ねることができるか、「もしも自分の上に原爆が落ちたら、待っている世界」を想像できるか」が重要で、現存する史料はそれを考える手がかりになります。その意味でも、資料を残していくことが必要ではないでしょうか。

※吉村さんの報告資料はこちらから閲覧、ダウンロードできます。

3)質疑・討論から考えたこと

 研究会の後半、質疑・討論で出された主な論点について、若干の補足と整理をしてご紹介してみます。今後の幅広い議論へのたたき台にしていただければ、と思います。

■ 原爆・戦争の加害・被害のとらえ方をめぐって

 ① 被爆者に残る「助けられなかった」「水をやれなかった」という意識について
 原爆が生み出した〈地獄〉(人間が人間であり得なかった極限状況)を体験した生存者に残るこのような意識を「加害者意識」と表わすのは適切ではないでしょう。
 被爆者は決して死者たちに害を加えたわけではありません。にもかかわらず、人間なら当然のことをしてあげられなかったことが、生涯「心の傷」となって被爆者を苦しめています。死者への「罪の意識」を抱いて苦しむのは、人間だからこそ。重要なことは、生涯つづくこうした苦しみを含めて、原爆がもたらした被害であるととらえることでしょう。
 そもそも原子爆弾をめぐる「加害(者)」は、それを使用したアメリカ(軍・政府)以外にはあり得ません。同時に、戦争を遂行して原爆被害を招いた日本政府も、その被害にたいする責任を免れることはできません。
 被爆者は戦後も死者たちの記憶を背負って生き、このような死が二度とくり返されぬよう、米日政府の責任を問い、核兵器廃絶と原爆被害への国家補償を求めつづけてきました。それらを実現してこそ、彼らの死が無駄死にでなかったことになるからです。

 ② 国家の責任と個人の責任について
 日本が遂行した侵略戦争・植民地支配は、多くの被害者を生み出してきました。その加害がアジア諸国から問われ始めた90年代には、被爆者が外国や修学旅行生に証言するときに、まず「謝罪」をしなければならない、という状況さえありました。
 しかし、人間としての感情は別としても、被爆者個人が国家の戦争責任を代わって負うことはできません。戦争の加害や戦争責任を考える際には、国家の責任と個人の責任をきちんと整理し区別するべきでしょう。
 被爆者運動はあくまで原爆被害者の運動です。“ふたたび被爆者をつくるな”という何よりの願いは、二度と核兵器の被害者にも加害者にもならない、という決意でもあります。原爆被害への国家補償要求は、戦争という国家の行為がもたらした原爆被害への責任を国にとらせることで、二度と戦争しない(加害国にさせない)仕組みをつくること。それは、かつて加害国の国民でもあった被爆者の戦後責任のとり方でもある、と考えてきました。
 日本の戦争責任、加害責任は、わたしたち国民自身が、あの戦争をどのように総括し、どのような国のあり方を求めていくのか、という問題なのではないでしょうか。

■ 日本の原子力政策をめぐって

 戦後の原子力政策については、被爆者の中にも当然多様な意見があり、二度と原爆被害者をつくらないという点を一致点として運動してきました。科学者たちが打ち出した「自主・民主・公開」の原子力三原則により、問題があるごとに学習したり、国に申し入れをしたりしてきました。
 3.11の福島原発事故が起きたときには、被爆者は大きな衝撃を受けました。自分たちの経験をふまえ、すぐに福島県庁に行って知事に会い、手帳の交付や被害・行動の記録をとることなどを申し入れました。また、その年の運動方針で、原発を廃止し原子力に頼らないエネルギー政策への転換を求めることを決定しました。
 ヒロシマ・ナガサキとフクシマの被害には、放射線被害という共通点はあります。しかし、戦争被害としての原爆被害と、地震・原発被害としてのフクシマでは、大きな違いもあります。単純に同一視すれば見えなくなってしまう部分もあります。共通項での連帯とともに、それぞれの被害者が被害への責任を問い、国の「受忍論」を打ち破っていくという方向での連帯もあり得るのではないでしょうか。

■ 一般空襲被害と原爆被害

 政府の被爆者対策は、当初から、他の戦争被害に波及させないため、原爆放射線の影響(それも内部被曝や低線量被曝は除く)にしぼって講じられてきました。基本的には、指定された病気になれば対応するというもので、原爆症の認定も「黒い雨」や放射線降下物の影響も、挙証責任は被害者側に負わせています。
 被団協の国家補償要求は、直接的には原爆被害への国の償いを求めるものですが、被爆者だけが補償されればよいとは考えていません。原爆被害への責任を果たす国であれば、国家の行為としての戦争がもたらした他の被害(一般空襲被害、他国への加害行為)についても無責任ではあり得ないはずです。
 しかし、原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)の「意見」は、戦争という国家の非常事態のもとにおける国民の被害はひとしく「受忍」すべきである、としました。被爆者は今なお、原爆で死ぬことも、被爆者として苦しみや不安を抱えて生きることも「受忍」させられています。被爆者を抑え込むことで、他の戦争被害者にも受忍を強いる。さらには、過去の戦争被害だけでなく、現在から未来にかけて、国の施策の一般原則として生きていて、現に、沖縄の基地や軍拡予算など、国民はすでに、戦争準備の「受忍」を強いられています。
 「国家の行為としての戦争」を放棄した憲法のもとで、戦争被害の「受忍」の強要があってよいはずはありません。「受忍」政策の克服は、核兵器も戦争もない世界を願うわたしたちにとっても、他人ごとではない課題だと言えるのではないでしょうか。

■ 日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名・批准しないのか

 「日本はアメリカの核の傘に守られている」と言われますが、本当にそうなのでしょうか。「核抑止力」とは核兵器による脅迫のこと。それがかえって核保有国を増やし核軍拡を進めてきたことは明らかです。
 政府は「唯一の戦争被爆国」といいますが、被爆したのは「国」ではありません。しかも国には戦争をして原爆被害を招いた責任があるにもかかわらず、いまだに被害をつぐなおうとしていません。核兵器が人間に「受忍」することのできない、させてもならない、反人間的で「絶対悪」の兵器だとも認めていません。
 原爆被害「受忍」政策と核兵器容認政策の根っこはひとつ。こういう政策をどう考えるのか、核兵器や軍事力によらない「平和」をどうしたら実現できるのか。大いに議論しながら、政府に禁止条約への参加をせまる国民世論を広げていきたいものです。

■ 継承する会の継承・交流活動について

 東京に継承センターをつくるとともに、“ノーモア・ヒバクシャ”の拠点を各地につくっていくことを重視しています。小さくても、そこに行けば県内の被爆者や戦争体験者の記録が見られ、生の資料にふれながら、学び、交流することができるようにしたいと考えています。すでに各地で、そのための模索も始まっており、12月11日(土)にはその経験を交流し合うオンラインでの討論集会も予定しています。
 合わせて、被団協が今夏発行したブックレット『被爆者からあなたへ―いま伝えたいこと』を活用して、被爆者と若い人たちが被爆者運動について学び合うとりくみも広げつつあります。

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