ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会は6月29日(土)、広島から若林節美さんをお迎えして、シリーズ13回目の「被爆者運動に学び合う学習懇談会」を開催しました(於:四ツ谷プラザエフの会議室。日本被団協との共催。参加者は26人、うち被爆者10人)。
広島赤十字原爆病院医療社会部の医療ソーシャルワーカーとして、原爆被爆者特別措置法施行の1968から26年間の長きにわたって被爆者相談にあたってこられた若林さんは、文字どおり被爆者相談の草分け的存在。広島県医療社会事業協会や、「基本懇」意見後に発足した「広島原爆被害者相談員の会」などの中心メンバーとして、被爆者相談に原爆被害の全体像・生活史把握の方法を実践的に採り入れながら、後進の育成にもとりくんでこられました。
「被爆者相談の現場から原爆症認定制度を考える」と題した問題提起は、原爆で暮らしを根こそぎ破壊された被爆者たちの怒りが制限だらけ(年齢・所得・病気)の特別措置法に対して爆発した当時、連日寄せられる遺族への補償や被爆による障害などの相談数十件を受け、認定制度に翻弄されながら、ソーシャルワーカーの役割を考えつづけてきた若林さんの、経験に根ざした、実に具体的で説得力のある原爆症認定制度批判でした。
〔問題提起の要旨〕
被爆者にとって「認定」とは、いわば最後の命綱。病気だけでなく、亡くなった母や父、何十年もの苦しみや被爆者のために努力してきた人生など、甦ってくるそれらすべての思いがかけられている。
国の認定制度はそうした被爆者の実態や思いに合わないものだった。
(その矛盾点について、事例を紹介しながら、以下の4項目にわたって詳述)
① 起因性:「原子爆弾の放射能に起因する」とは、被爆距離と特有の疾病に限定できるものなのか。
② 要医療性:「現に医療を要する状態にある」とは、治療効果が期待できることか。
治る病気はほとんどないにもかかわらず、効果とは何なのか? 経過観察や対症療法的な治療では「要医療」とは認められない。
③ 病苦と生活苦のぎりぎりのところでの認定申請となり、死後認定が後を絶たない。
④ 熱傷瘢痕、異物迷入などの外傷、望まない再治療(手術)に苦しむ。
今さら手術をさせられることへの抵抗。ケロイドのために学校にも行けず、読み書きができないためまともな仕事にもつけなかった苦しみなど。
日本被団協は、『原爆被害の特質と「被爆者援護法」の要求』(つるパンフ、1966)以来、認定制度を廃止し、治療の全額国庫負担は全被爆者に適用すべきである、と主張してきた。
また、専門家も、ひとりの被爆者がり患した白血病や悪性新生物について、「それが被爆に起因したと断定する決め手」も「起因していないと断定する決め手」もないことを認めており、「認定」制度は「今日なお矛盾や問題を抱えており、…原爆放射能の起因性が肯定され、かつ医療効果の期待できる治療がほどこされることが前提でなければ「認定」されないといった医療の枠、というより現在の医学研究の水準にとどまっている限りにおいては、もはや限界」だとしている。(中泉正徳、「広島医学」VOL.22)
しかし、被爆者対策における国の考え方は、戦争被害はすべての国民が「ひとしく受忍すべき」だとした「基本懇」意見(1980)にあり、これが「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(1994)でもゆるぎない基本になっている。集団訴訟等で認定の枠は若干広がったものの、新法における認定は医療法と変わらない。
こうした状況のなかで、認定の枠内でたたかっていくことがどのように国家補償制度につながっていくのか、私には見えない。また、広島の分裂した被爆者運動のツケが援護法制定や核兵器廃絶を困難にしている。被爆者の心をひとつにたばね、のりこえる手立てはないのだろうか。ソーシャルワーカーは、被爆者の実態に根ざした相談活動を全国に広げ、被爆者の今の実態に根ざした運動にもっともっと力を入れてほしい。
〔主な討議内容〕
○ あらためて相談活動の原点に返ったようだ。東友会の伊東会長は会を割らないことの重要性を強調していた。裁判では原告全員勝訴をかちとったが、2人をふるいにかけるなど、「自己規制」をしていた。現行施策の改善要求と国家補償とは別のものだ。
○ 広島の相談員の会の中心は30代。以前は生活そのものをどうするかが主題だったが、現在では、何とかかんとか生きてきた介護の必要な高齢者の問題が中心。多くの苦しみのなかで生きてきた被爆者が求めているものは何なのか。くり返さない誓いや根深い暮らしの問題など、人間らしく生きるための施策が求められている。
○ 集団訴訟はよく分からないなあ、と思いながら20数年を過ごしてきた。定年を迎え、これからどう被爆者と接していくかを考えているが、被爆者の声は相談の中にこそある。一人一人の被爆者の声、生き方を確かめ、原爆体験から人生をとりもどしていく作業をやっていくことかな、と。
○ 2003年から認定訴訟の前段階としての一斉申請が始まり、却下されたら裁判ということになった。裁判から被爆者運動に入った人たちには、「基本要求」を知らない人もいる。(対象となる病気にあてはまらず)自分は原告にはなれない、今まで語ってきたことは何だったのか、という人たちもいた。弁護士との合宿でも、いくら言っても分かってもらえない。勝てる証言が求められ、本当に言いたいことは言えないんだよ、と言っていた役員もいた。「これが最後の運動だ」と言われたことへの反発も強かった。
認定問題をつきつめても、国家補償にはならない。
○ 以前は2キロ以遠は認定されず、3.5㎞で被爆した両親は市役所で門前払いされ、2人ともガンで亡くなった。
集団訴訟は認定申請する人を探すところから始まったが、背中一面にケロイドを負い、温泉にも海水浴にも子どもを連れて行きたかったと、小さな家に小さな風呂をつくった人。娘をこれ以上苦しめたくないという人。東電に勤める息子から「裁判するなら出て行ってくれ」と言われ、本人尋問の前日に取り消した人…。認定されたからって楽にはならないし、今の基準ではくり返しくり返し同じことになる。
周囲から「これ以上何を求めるの?」と言われるが、国家補償は国が戦争しないと約束することで被爆者だけの問題ではない。被爆者の運動を社会保障で終わらせてはならない。
○ 原爆症認定制度では、その病気が原爆の放射線によると認めただけのこと。被爆者の苦しみ(被害)を(戦争を遂行し原爆被害をもたらした)国が償ったことにはならない。
○ 2013年に「おりづるの子(東京二世の会)」を結成した。東友会の協力は得ながら、別団体として。現在、会員は140人余り。女性の癌など難しい病気にかかった人も相当数いるが、二世は多様で、親の被爆は自分の生きるテーマとは関係ないという人、知らない人も多い。東京をはじめ、神奈川、大阪の2つの自治体には医療費の助成制度もあるが、運営の仕方はさまざまというのが実情だ。
○ 1970年代、社会科学者とMSWで事例研究会をつくり、原爆は人間に何をしたのか、原爆被害をどうとらえたらよいのかを研究し、77シンポや国民法廷運動にもとりくんだ。
放射線障害だけで原爆被害をとらえたことになるのかどうかが大きな問題で、被害の全体的把握が社会科学の課題だった。3.11以降、“ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ”と言われることも多いが、“ヒロシマ・ナガサキ・東日本大震災”なら分かるが、放射線だけでとらえてしまってよいのだろうか。
「基本懇」意見の「戦争終結の契機ともなった」は、議事録を見れば、一般空襲に広げないためにつけた論理だということが分かる。
〔まとめに代えて〕
若林さんは、これらの議論をふまえて、「認定訴訟から思うこと」というまとめの感想を送ってくださいました。その要点をご紹介しましょう。
・原爆症認定訴訟は、基本的には、現に治療を受けている疾病が原子爆弾の傷害作用、すなわち放射能に起因するか否かが争点だ。弁護士の役割は、認定において被爆者の疾病が原子爆弾の放射能に起因すると国が認めるべく弁護し、勝訴すること。一連の訴訟で認定基準を一定拡げさせる成果を得たが、要医療の問題、後遺症や過去の疾病(経過観察、再発の恐れあり)は認めないなど、矛盾を抱えたままだ。
・原告の被爆者たちは「今の病気を何としても原爆によるものだと認めさせるんだ」と意気込んで闘った。しかしこの「原爆によるもの」の被害とは、死んだ人たちのこと、それにつながる被爆者の70数年にわたる原爆の被害すべてを認めさせることであり、二度とこのようなことがあってはならないと国に認めさせたい、との思いであった。
・原爆症認定訴訟は、そうした被爆者の総合的な被害や、ふたたび被爆者をつくらないことを認めさせるものではない。
・この訴訟ではかなえられない、国家補償に基づく「原爆被害者援護法」制定に連動させて取り組む必要があったのではないか。そこは弁護士の役割というより、被爆者運動の側の役割が問われていたのではないか。
・広島のソーシャルワーカーたちは原告の陳述書の聞き取りや代書の手伝いをしたが、原告の最も身近な立場にありながら、認定制度の限界を認識し、次の段階、すなわちふたたび被爆者をつくらない原爆被害者援護法制定に向けての援助の視点が欠落していたのではないか。
・被爆者として必死に国と向き合った多くの原告被爆者は、認定されて終わり。「新法」の問題をどのように理解されたのだろうか。今後の被爆者運動にどうかかわったのか、関わっているのか、が気になるところだ。「ノーモア・ヒバクシャ訴訟」という訴訟名に惑わされていたとも思える。
・日本被団協が長年の運動の中から積み上げてきた「基本要求」など、「ふたたび被爆者をつくらない」原爆被害者援護法の思想は、人類すべてが共有しうるものだ。原告の被爆者たちをこの戦列にしっかり加わってもらう、つなぐ支援はできなかったのだろうか。
・原告の被爆者をはじめ、すべての被爆者が「生きていて良かった」と言える最後の人生を生きられるような相談援助活動を。これは弁護士の役割として期待できないでしょう。