被爆75年・2020年の12月は、厚生大臣の私的諮問機関である原爆被爆者対策基本問題懇談会(「基本懇」)が、「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について…何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による「一般の犠牲」として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない」と、原爆被害者援護法の制定を拒む「意見」を答申してから40年。この節目にあたる12月12日(土)、継承する会は日本被団協と共催して、表記シンポジウムを開催しました。
コロナ禍のもと、オンラインによる実施となりましたが、参加者は85名。被爆者は若干少な目だったものの、長崎、広島、奈良など遠隔地からの参加も多く、また、司会の二村睦子理事をはじめ、日本生協連スタッフのZoom操作への協力もいただいてスムーズに運営され、2時間半が短く感じられました。
以下、その概要をご報告いたします。(文責:事務局)
シンポジウムは、濱住治郎さん(被団協事務局次長)の挨拶で開始。継承する会が保存、整理してきた被爆者運動資料の意義とその活用の可能性を考えるとともに、長年にわたる被爆者の運動は何をめざしてきたのか、残された〈足跡〉に、私たちはどのように向き合うことができるのか、そして、未来に向けて何を学び受け継いでいけばよいのか、をともに考えたい、と述べました。
【第1部:被団協運動資料を用いた2つの報告】
第1部は、実際に被団協運動資料を用いて教育・研究を実践してきた昭和女子大学の戦後史プロジェクトのみなさんと、一橋大学大学院での「平和の授業」にとりくんだ根本雅也さんと院生のみなさんから報告していただきました。
■ 報告1.「歴史学と被爆者運動史料との出会い―戦後史プロジェクトの取り組み―」
まず、松田忍さん(昭和女子大学准教授・日本近現代史)から、被団協関連文書と出会い、史料整理アドバイザーをつとめる(100名以上の学生が史料整理作業に参加)なかで、2018年に研究プロジェクトを立ち上げ、秋桜祭で3回の企画展示(①被爆者に「なる」、②被爆者の「発見」、③被爆者の「生きてきた歴史」展)をしてきた経過を報告。
これを受けて、プロジェクトの3人の学生(大学院生、3年生、他大学から参加の1年生)の発言を交えながら、プロジェクトに入った動機、生の史料に触れてみた感想、やりがいを感じるとき、被爆者運動史料を残す意味などが生き生きと述べられました。
● プロジェクトに入った動機
31名のうち長崎・広島に関係ある人は2人のみ。他は、歴史や史料実物への関心、戦争への関心から、コロナで他のサークルが中止になり誘われて、など直接の関係はない。
● 生の史料に触れてみた感想
・被爆者の史料には人間味が感じられ、「対話」している感覚になる。
・「あの日」があって、すぐに原爆への理解や「国家補償」の要求があるわけではない。被爆者が原爆と向き合って、考えを持ちより議論してきたあとの「現在」であり、そのプロセスを丸ごと残すことに意味がある。
● プロジェクトでやりがいを感じるとき
・先生も先輩、後輩も関係なく、何を言っても受け止めてもらえる議論の場がある。
・政府の「受忍論」を知ることで、戦時期から現在まで続く日本社会の構造を理解できる。
・どちらが正しいかではなく、考える材料=歴史像を提供すること。「被爆者運動史の歴史像を固めるための議論」を常日頃からやっている。
● プロジェクトで学外の人びとと接して思ったこと
・なぜ、原爆や被爆者を考えることは「偉い」と言われるのか、違和感がある。
・社会からの要請、学問外からの価値づけと、学問としての視線が交錯している。継承が目的になると、「ねばならない」窮屈さがある。
・まず「理解したい」。「継承するのか/しないのか」は理解してからのこと。
● 被爆者運動史料を残すこと、歴史史料を残すことの意義
・先人の足跡、被爆者が立ち向かってきた問題提起を残すこと。
・「受忍論」は今も続く問題。「受忍論」や核廃絶問題について、被爆者が考えた思考のプロセスを残すことが、将来の自分たちに役立っていく。
・被爆者が原爆について考えてきた歴史は、資料がないと永遠に失われる。この世に1点しか存在しない史料(メモ書き、アンケート回答など)。
・被爆者として生きつづけ、考え続けたことを伝えられるのは、被団協関連文書だけ。思考のプロセスがあって答えがある。
最後は次のように結ばれました。
・歴史学は人間の営みを扱う学問。被爆者の「原爆と立ち向かってきたあゆみ」は人間の歴史であり、それをつむぐためには、生きてきた人々の言葉=史料が不可欠です。
・「あの日」をくり返さない、だけでなく、「あの日」から75年のそれぞれの人生〔苦しみつづけてきた被害〕をくり返さないことが大切。我々は核兵器が存在する世の中に生きています。このプロジェクトでは、「人間が原爆と向き合った歴史」「人間が原爆を理解し伝えようとした歴史」「原爆を受けたあと生きてきた人間の歴史」を解明していますが、それは、核兵器と向き合って生きるための力になると思います。
■ 報告2 被爆者調査の資料が語るもの―調査・教育・継承―
根本雅也さん(松山大学准教授・社会学)は、2019年度に一橋大学での大学院授業「平和の思想」をつうじて、資料活用の可能性を、また、2つの原爆被害者調査(1995年と2015年)から被爆者運動の調査資料が語るものについて、報告されました。
(1)授業「平和の思想」の取り組み
「平和の授業」では、12名の受講生とともに、「原爆被爆者に対する援護に関する法律」制定直後に実施された「被爆50年調査」の自由記述回答式の3つの設問(① 援護に関する法律についての意見/② 被爆者運動(の進め方)についての意見/③ 次世代に伝えたいこと)の整理・分析にとりくんだ。自身の被爆者へのインタビュー調査の経験と、社会調査を教えた経験を活かし、「調査」と「教育」を組み合わせて、「継承」につなげられないかと意図したもの。基礎的な文献の輪読~回答の都道府県別分析~設問ごとのグループワーク・プレゼンテーション、授業時間を超えて、最後に報告書を執筆するまでに至ったのは、分析・考察・執筆をつうじて被爆者の「声」に向き合い、自分の言葉で捉え直す意味があったが、何よりも受講生の熱意あって出来たことだった。
● 参加した大学院生の発言より
・身内にいた被爆者から、つらい体験を話さない姿が被爆者のイメージだった。違う被爆者の声にふれたいと授業に参加した。自由記述の理解は難しいが、戦争責任の所在や犠牲者に対する国の姿勢をていねいに理解していくことで、自分のバイアスに気づき、視点をかえるきっかけになった。自分の気持ちも変わり、これからは自分の意思で被爆者の声を聞いていきたい。
・原爆といえば広島・長崎と思っていたが、被爆者は全国にいると実感。県別分析をとおして、県により頻出したキイワード(広島:原爆孤児、学童疎開など)を発見することができた。分析中は資料に向き合うのに精一杯だったが、一年経った今は、被爆者の声を読みとるとはどういうことで、何が必要なのか、議論することが大事だと思っている。
・広島、長崎以外にも多くの被爆者がいる事実、背後に不可視化されている多様な人生があることを知った。95年に行われた調査に四半世紀経ってふれたわけだが、「高齢化」「生きているうちに」の声がより切実に感じられた。「〈平和〉を願わずにはいられない人びと」の想いと、それを支える一人ひとりの戦争・被爆体験の固有性に寄り添い、考えることから〈平和〉とは何かを問いつづけていくことが、被爆者たちが形成してきた「平和の思想」につらなっていくための方法かと思う。
(2)二つの原爆被害者調査(1995年・2015年)から見えてきたこと
● 被爆70年を生きて「被爆者として言い残したいこと」調査(2015)の回答では、「今とくにこころにかかっていること」として、「日本がまた戦争する国になるのではないか」が最も多く(64.6%)、「再び被爆者をつくらないために、今、日本政府に求めたいこと」では、「9条厳守」(77.3%)が「核兵器廃絶」(72.2%)を上回っていた。
なぜ被爆者は戦争に反対するのか。「原爆はそもそも戦争がもたらしたもの」「戦争は自然災害ではなく人災。政府の方針一つで回避できる」といった回答から、日本政府が、戦争(人災)を開始・遂行し、原爆(被害)を招いたのに対し、被爆者は、憲法(9条)と国家補償をつうじて平和を実現する、戦争ではない道があることを示している。
● 「平和の思想」で整理・分析した「被爆50年原爆被害者調査」(1995)では、「国家補償」という言葉が目立った。制定された「援護に関する法律」への批判として、「国家補償の不在、被爆者視点の欠如が指摘され、被爆者にとっての国家補償とは、「不戦の証」であることが示された。
● おわりに:
2つの原爆被害者調査の資料から見えるのは、戦争被害としての原爆被害だ。被爆者の思想は反核にとどまらない。核兵器反対と戦争反対が結びついており、原爆被害への国家補償とは、戦争の拒否とそのための制度づくりと言える。
被爆者が書き残したものから、なぜこんな目にあったのかを問い直す被爆者の思想を学び、彼らが残してきた〈遺産〉とは何か、何を受けとっていくのかを考えていきたい。
【第2部の討論から】
■【特別報告】Vasileva Vladisaya Bilyanova「米国政府への原爆被爆者のメッセージ ―2005年と2009年の日本被団協アンケート調査の自由記述回答に基づく一考察―」
休憩後の討論は、ブルガリアから留学し、広島大学大学院の博士課程で研究するヴァシレヴァ・ブラディサヤ・ビラノヴァさんの特別報告から始まりました。日本被団協の2つのアンケート調査「わたしの訴え」(2005)と「被爆者からのメッセージ」(2009)のアメリカ政府に対する思い(自由記述回答)を分析した修士論文の概要を報告されました。
被爆者の米国政府への思いに迫る研究は限られており、とりあげた調査もわずかだ。 この研究は、「原爆体験の思想化」・被爆者の「こころの問題」に関する研究の重要な一部と位置づける必要がある。
まず、回答を意味内容により7つのグループに分類し、その関係性を分析した。被爆者のアメリカへのメッセージの中核的な要素は「核なき平和な世界」という思いであり、「原爆投下や被害への責任」も重要な要素だ。米国政府への謝罪要求は、核兵器なき世界の実現と強い相関がある。
今後は、被爆者のアメリカへの要求が日本政府への要求とどのように相関し合っているかを検討していきたい。
■ 継承する会の「所蔵資料の概要」について
事務局の栗原(資料担当)から報告
所蔵資料は、①不定形の資料(愛宕事務所)と②書籍・冊子類(南浦和の書庫)の2本柱からなっている。①は昭和女子大生により整理されている被爆者運動(日本被団協・各県被団協)史料、②は手記・体験記、調査・研究、文学・芸術、核関連文献(以上目録をホームページで公開)、被爆者運動史、学習と継承、その他(他の戦争被害等)のジャンル別に目録を整備中。国家補償の援護法要求に賛同した衆参国会議員の署名や、日本学術会議による勧告:東京・広島・長崎への「原水爆被災資料センターの設置について」(1971)、各県被爆者の会が独自に実施した調査の報告書など、珍しい資料のいくつかも紹介し、所蔵資料の一般公開に向けては、場所と人、財源の確保が課題と訴えました。
■ 被団協からの発言「被爆者運動の中継ぎ手として」 木戸 季市(被団協事務局長)
日本被団協は、原爆体験、原爆被害認識を土台として、“ふたたび被爆者をつくらない”ために、日本政府には原爆被害への国家補償を、アメリカ政府には核兵器廃絶への主導的役割を求めてきました。その実現は簡単ではないが、世界は核兵器の禁止・廃絶に向かう流れを強くしています。
「基本要求」に述べられた被爆者の使命は、「人類が二度とあの“あやまちをくり返さない”とりでをきずくこと。被爆者運動の先達からうけとったものを次の世代につなぐ「中継ぎ手」として生きる、それが私に与えられた役割と考えます。
すべての人が被爆者になる(させられる)危険な中で生きています。どう生きるべきか、被爆者の死と生をうけとめ、一人一人の生きる道を創り出してください。
■ 討論・チャットへの質問・アンケートのなかから
【被爆者、被爆者運動をめぐって】
・「あの日、水をあげることができなかった」など、ずっと後悔の念をヒバクシャは感じて生きていることを知りました・
・原爆の被害に遭われたひとたちが、どこか記号化されてしまう、自分たちとは別の世界のひとのように感じられ、「被爆者」という言葉に少し抵抗感をもっていた。…発表をうかがい、自分は「被爆者」を「被害者」というひとつの側面からしか捉えていなかったのかもしれないなと気づいた。…英語でsurviver と訳されているように、生き抜いてきた人たちという観点から、今後の「被爆者」取材をしていこうと思った。
・「受忍」との闘い。その過程が鳥瞰できたことは大きな収穫。
【史料研究・継承をめぐって】
・大学の取り組みが興味深く新鮮。学術的なアプローチも重要とわかり、関わったそれぞれの人の思いの深さにも触れた。
・継承したいという被爆者と、残していきたいという次世代の思い、どちらも不可欠だと感じた。歴史資料として研究がもっと続いていってほしい。
・資料のデジタル公開の前段である個人情報等のマスキング作業へのお誘いをいただいた。資料室に出向かなくても、日々の中で可能なデジタルの仕組みが本格化すれば、実務作業を機能的に分担する以上に、関わる多くの方々に被爆の実相が直接伝わり、継承の広がり になると感じている。
・なかったことにしてはいけない。プロセスを見ることで心がやどる。戦争体験者でも被爆者でもない私は、体験者から学ぶためにそのような資料が必要だ。
・被爆者運動史の資料を読み解き、「被爆者になる」プロセスを学んだことは、非被爆者が、このままでは誰もが「未来の被爆者になりうる」ということを自覚する、つまり被爆者の立場を継承することにつながるのではないかと思った。
■Q&A (当日十分なお答えができなかったことも含めて)
【資料の保存・活用をめぐって】
Q.(奈良)平和ライブラリ、原爆以外の戦争に関わる資料はどこまで受け入れるのか?
⇒A.継承する会では、戦争に関わる生資料は集めていない。書籍も原爆関連を中心に収集しているが、空襲被害や沖縄戦、強制収容所体験など、関連分野についても所蔵している(東京には、東京大空襲・戦災資料センターなど、戦争に関わる施設も存在する)。
地方の場合、被爆者・原爆だけに限ると、狭くなりすぎるかもしれない。県内の戦争をめぐる動きと関連させながら、メインとサブと位置づけてみたらどうか。
Q.(長崎)相談活動の資料は個人情報の塊。被爆者の苦悩を表現するものではあるが、保存・活用が難しい。
⇒A.相談活動は被爆者運動の土台に関わる部分で、価値ある資料。原爆被害を考えるうえでも、その時代々々に被爆者がどんなことにつきあたっていたかが分かる。整理の仕方は相談しながら(そうした場もつくり)、失われないよう保存していきたい。
Q.資料は掘り起こさなければ失われる。個人ではやりきれるものではないが、作業を一緒にできる方はなかなか現れない。他県の状況が気になる。
⇒A.各地の資料はすでに失われているところもある。何もかも継承する会に集めるのではなく、できるだけ地元で、小さくても資料を見ることのできる場をつくっていきたい。各地につくられてきた「ヒバクシャ国際署名」連絡会のネットワークや、継承する会の「未来につなぐ被爆の記憶プロジェクト」の仕組みなどを活用して、各地の資料の保存・活用とつなげていければと考えている。
Q.「被爆者運動史料」と「被爆者史料」の違いは?
⇒A.どちらも大事な資料だが、継承する会がとくに力を入れているのは、日本被団協を中心とする被爆者運動の史料。これは公的な資料館や図書館にもない、唯一無二のもの。被爆者調査の原票や要求を発展させてきた過程の資料、政府や国際社会に訴えてきた資料など、継承する会が保存し活用しなければ、永久に失われてしまいかねない。(もちろん、個々の被爆者の書いた手記なども、寄贈いただけるものはいただいている。)
【被爆者運動をめぐって】
Q.70年調査には50年調査ほど国家補償が出てこないにしても、50年調査とは違う「国家補償」に関する記述の特徴はあるのか?(「国家賠償」は求められていないのだろうか)
⇒A.調査が行われた時期(背景)の違い(国家補償が争点になった「援護に関する法律」の制定直後(50年調査)と、集団的自衛権と安全保障法(戦争法)強行(70年調査))が大きいと思われる。
なお、被団協が求めてきた国家補償とは、国家賠償(違法行為に基づく不法な結果への損害賠償)ではなく、行為の違法・適法を問わず、戦争という国家の行為が招いた原爆被害への「結果責任にもとづく国家補償」です。
Q.なぜ、原爆は受忍できないのか、について。他の戦争被害者も受忍できているわけではないと思うので、「なぜ政府は原爆だけ受忍しなくてよいとしたのか」という意味だと思ったが?
⇒A.政府は、原爆被害のうちの放射線による晩発障害だけを抜き出して援護施策を講じているものの、原爆被害全体については(地獄のなかの死も、被爆者として苦しみや不安を抱えて生きることも)「受忍」させつづけています。被爆者対策を戦争被害者一般に広げないために、一貫して原爆放射線による健康障害に限定した施策をとりつづけてきたのです。被団協は、「基本要求」や「85年原爆被害者調査」により、原爆被害は人間に「受忍」できるものではなく、「受忍」させてはならないことを明らかにするとともに、国が戦争責任にもとづいて原爆被害を償う制度(原爆被害者援護法)をつくることは、他の戦争被害の補償への道を開く、と位置づけてきました。