日 時:2018年4月14日(土)13:30~16:30
場 所:プラザエフ5階会議室、参加者29人(うち被爆者8名)
問題提起者:松田 忍(昭和女子大学人間文化学部歴史文化学科 准教授)
“「被団協文書」調査報告~「被団協連絡」を読む/「被団協速報」の誕生”と題した報告※は、継承する会が整理してきた日本被団協の文書2700余点のなかの「被団協連絡」(1957~73年発行)を読み解きながら1960年代における被爆者運動の変化をみようとするもの。当時を知る被爆者も少なくなったいま、参加者(29名、うち被爆者8名)たちにとっては初めて知ることも多く、原水爆禁止運動の分裂のなか、被爆者運動の先達が激しくも真剣な議論を重ねながら、自らの要求に根ざし主体的に創り出していった運動の発展に目を開かれる貴重な機会になりました。
松田さんの問題提起と参加者との議論をつうじて明らかになったことの概要は、以下のとおりです。
○ 原水爆禁止運動のなかで誕生しともに歩んできた被団協だが、原水禁運動が分裂するこの時期の議論(加盟維持・脱退をめぐる)は比較的オープンにされていた(「連絡」№62など)。「被団協連絡」(1959~62)にコラム「討論のひろば」を設け、様々な意見を掲載し、時に論争も紹介している。このなかの伊東壮(東京)、山口清(東京)の意見や久保仲子(愛媛)、副島まち(兵庫)論争など見ると、①被爆者運動と「政治」との距離、②被爆者運動と原水爆禁止運動との関係、をどう整理するかという問題は、分裂前から内在していたことが分かる。分裂はその問題を顕在化させる契機にすぎなかったのではないか。
○ 原水爆禁止運動のなかで、原水爆禁止と被爆者救援は「車の両輪」とも言われたが、「被爆者救援」の位置づけは、あまり明確ではなかった。その後も、被爆者救済・救援→援護連帯へと変わっていったが、原爆被害への国家補償の課題については必ずしも位置づいていない。
○ 戦後、日本国憲法が制定されたときは、これから日本は戦争をしないのだと頭に刻み込まれた。しかし、朝鮮戦争をへて警職法、60年安保と危ない時代になってきて、この時期には、原水爆禁止運動に限らず、婦人、青年運動、労働運動、さまざまな学会など、あらゆる分野で分裂の嵐が起こっており、バックに日米支配層の大路線があったのではないかと思われる。
○ そのなかで日本被団協が統一を保ってこられたのはなぜか。
日本原水協から離脱し、これ以降、日本被団協としてはどの組織にも加盟せず、原水爆禁止運動については、各県組織、個人がそれぞれの立場で参加してきた。
宗教者や科学者・専門家との連携を強化している。被団協に専門委員会を設置し、『原爆被害の特質と「被爆者援護法」の要求』(通称『つるパンフ』)の作成につながる。石川では、被爆者、宗教者、科学者で三者懇談会をつくり、原爆病院への被爆者の派遣などにとりくんだ。この時期の被爆地以外の各地の会の活動の展開にも注目する必要がある。
きのこ雲の下でいっしょに体験したではないか、という思いはつよかった。
○ 原水禁運動の分裂の嵐のなかで「やむをえず」援護法制定運動を中心に統一した運動をすすめた、というよりは、被爆者自身が自らの要求に立脚した運動をすすめていく方向に運動を展開していった(自立independentと自律 autonomy)意味が大きい。
狭い意味での「被爆者運動」は、1966年から始まったと言えるのかもしれない。
○ 国民的な広がりでの原水禁運動→あたらしい「普遍性」の獲得へ
“ふたたび被爆者をつくるな/ノーモア・ヒバクシャ”ということばについて、当初はとてもつよい主張だと思っていたが、資料を読むうちに、誰もが反対できない普遍性・正当性を獲得する道を選んだのではないか、と思うようになった。
これらの言葉がいつ、どのようにして生まれて来たのか、いつまでさかのぼれるのか、については、確認する必要がある。
○ 原水爆禁止運動との距離≠核兵器廃絶からの後退
被団協が原水協から脱退したとしても、結成以来、核兵器禁止・廃絶の課題を下したことはない。ただし、二大要求のどちらに軸足が置かれたかは、時期により変遷がみられる。
日本被団協としての国際活動の本格的展開(70年代~)、「基本要求」における二大要求(「核戦争起こすな、核兵器なくせ」「原爆被害者援護法の即時制定」)の定式化、ヒバクシャ国際署名(2016.4~)など。
昨年「ヒバクシャ国際署名」をはじめたところ、新しく運動に参加してきた人たちから、国家補償という政治的なことはいやだが、この署名は人類史的な課題だからやりやすい、と言われる。原水爆禁止という政治的問題に左右されず援護法要求にしぼったという当時とは逆転していておもしろい。
最後に松田さんから、戦後史における被爆者運動の位置づけをめぐって、今日のような話を歴史学会でしても、なかなか関心は呼びにくい、と発言。戦後史に位置づけるためには、一つには、他の戦後の運動と並べてみることが必要であり、もう一つは「受忍論」。これは、責任や権利をあいまいにし、雲散霧消させる日本社会の特質ともいえる。それに立ち向かっている団体の運動として、戦後史にい続けられるのではないか。基本懇後の模擬裁判(国民法廷運動)などに興味を覚える、と言われました。
今回の報告をきっかけに、引き続き「被団協文書」を読み解き、秋ごろには次の報告の機会をつくっていただける予定です。
松田忍さんの報告内容は、昭和女子大学近代文化研究所紀要『学苑』において公開されています。
〔研究ノート〕「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)関連文書の概要」 『学苑』935号, 10-22, 2018-09