日 時:2018年10月27日(土)13:00~16:00
場 所:港区・味覚糖UHA館 会議室、参加者24人(うち被爆者 名)
問題提起者:濱谷正晴(一橋大学名誉教授)
「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の制定から24年。この法律は果して被爆者運動が求めてきた援護法と言えるものなのか? 法制定直後の緊急全国代表者会議(94・12・23)における議論を、濱谷正晴さん(一橋大学名誉教授)制作の映像と資料で振り返りました。
この代表者会議は2人の代表委員(当時)のあいさつで始まりました。伊藤サカエ氏は「政府与党の、私たちの希望を欠いた提案が可決され、もっともっと大きな荷物を抱えた。私たちの後ろには、34万人の死んだ人と、一般戦災者もいる。国がした戦争の責任をなぜ国民が、政府がとらないのに私たちがとらなくてはならないのか。…もっともっと固く団結して、私たちがこれだけやったんだという証拠を挙げたい」。伊東壮氏は「被爆者援護法が一応、どんな格好であれ、できた」と言いながら、「具体的に言って、今度の援護法で、いったい我々の要求した理念はどうなったんだろう。具体的な施策は、何がどのように伸びたんだろうと検証していくと、私どもが言ってきたこととは大分かけ離れている。…我々はこれをどう受け止めて、さらに運動を展開していくのか、非常に重大な、被団協始まって以来の大きな転回点に立っている。…「最後のすみかにここをしない」ということだけは、今日は確認できるんではないか。…今度の援護法の評価、今からの運動の進め方、この2点にわたって討議をいただきたい」と述べました。
齊藤義雄事務局長の基調報告を受けての議論の中心は国家補償をめぐるもの。法の評価については「(前文に入れられた)「国の責任」とは、「国家補償の要求を頭から否定できなかった」(基調報告)からではなく、国家補償を否定するために入れたものではないか。厚生省自身が国の戦争責任を意味するものではない、(法の)運用上の問題としての国の責任である、と答えている」「国家補償を政府はなぜ認めなかったのか、はっきりさせる必要がある。政府は、広島、長崎への原爆投下は違法ではなかったと言い切った。そして、戦争は国の責任ではなく一億国民の責任なんだと、基本懇の受忍論をこの法律で再確認した」など、国の戦争責任を認めず国家補償を否定した法律への怒りの声が渦巻きました。同時に、「できた制度は国民の支持と世論に押された矛盾の反映で、われわれが運動をやらなかったらこういうことも実現しなかった。支えてくれた多くの市民団体や国民の支持、世論の力をもう少し評価してほしい」という注文も出されました。
さらに「理事会ではインチキの「援護法」は認められないと確認し、あくまでふたたび被爆者をつくらない援護法を追求していくが、「援護法ができてよかったですね」という声が出るなど(現場では)混乱を起こしており、「援護法」という言葉が独り歩きしている」と、地方からの率直な声も聞かれました。
今後の運動のあり方をめぐっても積極的な意見が出されました。被爆者の求める援護法は「国家補償の問題抜きには考えられないが、戦争責任を認めるわけだから簡単ではない」「もっともっと多くの人と結びつく運動をよほど考えないと。あの被害というのはほんとに許せないですから、大国民運動を起こしたい」「実現するには、他の戦争被害者やさらに多くの国民と結びつけるよう、工夫して運動する必要がある」「(援護に関する法律の)中身を変えていけば国家補償の援護法になるという甘い幻想ではなく、正面からこれにぶつかっていくとりくみを」等々。齊藤事務局長も「基本懇の戦争犠牲受忍論は、一般戦災の中に原爆被害も加えて我慢しろというもの。国民的に、この受忍政策を変えさせていかなければ、我々の国家補償も実現をみない。日本の国家補償制度は、国との身分関係にある者にしか適用されていない。この現状を、市民サイド、一般戦災者にも適用させるものに変えていくたたかいが、これから我々がやる闘いの中心的なものになる」と答弁していました。
学習懇談会の参加者(24人)は、当時を知る人も初めて知った人も、これほど本質に迫る熱心な討議が行われていたことに感動し、こうした議論がその後の運動でなぜ深められなかったのか、各地で寄せられていた被爆者の声を掘り起こしながら、もう一度総括してみようと熱心に話し合いました。
〔参加者の感想・意見から〕
○ みなさんの発言がすばらしい。先輩たちがよく勉強してらっしゃるし、本当にがんばっていた。
○ あの頃は、法律ができてよかったという雰囲気がけっこう強かった。「援護」という名がついた法律で、前文に「国の責任」と書かれた、特別葬祭給付金、など。しかし、前文の「国の責任」とは何だったか、きちんと読んで冷静に考えるべきだったのではないか。
前文の3つの段落の最後は234文字もの一つの文章だが、結局のところ「国の責任で…この法律を制定する」ということで、2か所に出てくる「核兵器の究極的廃絶」と合わせて、核兵器(即時)廃絶と国家補償を拒否する法律だ、と明確に言っている。
いま国家補償をどうするのか。国家補償を主張しなくなったら、被団協創立以降の運動を否定することになる。
○ 「基本要求」にいう国家補償の4本の柱(被団協自身による原爆被害者援護法の定義)がすべて否定された法律を、被団協がなぜ「援護法」と言ってしまったのか(1年後の定期総会で、「被団協は新法を援護法とは呼ばない」ことを確認しているが。)
○ あんなに怒りのことばが出ているのに、それがなぜ、その後の運動に生かされなかったのか。当時の被団協事務所には、しみじみと感動している雰囲気があった。すべての政党が新法に賛成してしまったことをどう受けとめたらいいのか、中央役員にも迷いや揺れがあった。頑張ってきた被爆者をがっかりさせない、励まさねばということもあり、怒りを組織できなかった。会議の議論が深められず、すごくもったいなかった。
○ こんな大変なことが起きていたのかと初めて知った。援護法や受忍論て何だろうと思っても、若い被爆者は蚊帳の外だった。今日参加できてよかった。しっかり伝えたい。
○ 国家補償を求めるには、他の戦争被害者との連携が必要だと、すでに法制定直後に話し合われている。その後の流れをもう一度学習できるよう、今どうするかを考えたい。
○ つい先日の代表者会議で、「実現できない国家補償よりも…」という意見があり、時代が変わったなと思った。この当時では考えられない。
○ 同じ代表者会議で、秋田の代表が「基本懇意見がのさばりすぎているのを何とかしろ」と発言している。これが裁判所や国の政策をしばっているのはなぜか、なぜこんなにのさばらせてしまったのか、を考えねばならない。